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2013年 08月 25日
明報周刊 2013年3月23日 2315期
------------------------------------------------------- 天蘭、息をのむ美しさの表紙をデザイン 覇王の人選は鶴の一声で決定 懸案が解決されないままのある日、雑誌《號外》の表紙写真が登場し、その妖艶さに世間は騒然となった――娘役に女装したレスリーは渾身の芝居をしていた。そして自分が虞姫の再来と証明していた!レスリーの“デモンストレーション”だと言う人もいれば、映画会社の“お試し”だと言う人もいた。制作兼イメージデザインの劉天蘭(ティナ・リュウ)は「映画とは全く関係は有りません!」と断言する。レスリーをカバー写真に起用したとき、“京劇の女形”と“西洋のファッション”という二つのコンセプトを提案した。「レスリーに聞くまでに、私は京劇の女形が面白いと思っていました。やはり彼も同意してくれたので、すぐに髪形、化粧、衣装を手配し、そして京劇の歌える友達に、手の形、仕草等を教えて貰い、一日楽しみました」 その年の金馬獎にゲストであったレスリーは、天蘭に同行を求めた。出発前に表紙の原稿がなんとか刷り上がったので、天蘭は台湾でレスリーに見せようとスーツケースに放り込んだ。「現場に着くと、またメイク等に追われて忙しく、ようやく原稿をホテルの部屋に置いていたのを思い出しました。メークを落とそうという時に、原稿を取り出しました。彼は一目見るなり『すごくきれいだ。これもらえる?』と言いました」 レスリーはこの写真を陳凱歌に贈った。監督がどう思ったかは分からないが、聡明な徐楓には良く分かっていた。レスリーに虞姫出演を説得する重責は、陳凱歌の他にはないと。「私たちの会社は顔を出さず、陳凱歌とレスリーで話してもらうことにしました。密かにレスリーを北京に行かせて、化粧をさせました。写真撮影後、レスリーはとても喜んでいました。多分、彼がマネージャーに過大な条件を出さず、契約をまとめるよう話したのでしょう」。この一方で、黄百鳴(レイモンド・ウォン)が懐の広さを見せ、レスリーと永高電影有限公司の契約を7月1日発効に延期した。レスリーは 「僕はギャラ増額も求めなかったし、他に何も望みませんでした。しかし、却って陳監督が感動してくれ、すぐにジョン・ローンに約束していた条件をそのまま適応してくれることになりました。例えば専属運転手、世話係、ホテルのスイートルーム。また皆と同じ釜の飯を食べなくていいように、僕のための料理人、毎日決まった時間に現場に持ってきてくれました」 覇王の役については、ジャッキー・チェンと言われたことがあった。徐楓は「ジャッキー・チェンも考えましたが、彼はそれほど適役とは言えません。菊仙はアニタ・ムイとコン・リーの名が挙りました。私はコン・リーを推しました。アニタ・ムイはよく似た《胭脂扣(ルージュ)》に出ていますから、それほど意外性がないでしょう。反対にコン・リーはこのような役は演じた事がありません」。しかし思いがけず、陳凱歌の反対にあった。「監督は、コン・リーはチャン・イーモウの女優だと言いました。私はあのコンビは沢山の作品を撮り、もう新しい火花を散らすことはない、陳監督がコン・リーを撮れば新しい衝撃が生まれるかもしれないと考えました」 終始、陳凱歌は北京電影学院の同級生、張豊毅(チャン・フォンイー)を覇王に起用したいと考えていた。そして張豊毅を側から放さなかったが、徐楓は猛反対した。ある日陳凱歌が尋ねた。「あなたが考える覇王はどういう人?」。徐楓は答えた。「男性(程蝶衣)と女性(菊仙)が彼を心から愛するのです。出て来るなり、観客も圧倒できなければ。“駱駝の祥子(シァンズ)”(訳註:張豊毅の出演作。人力車夫を演じた)に覇王を演らせられます?受け入れられないわ!」。監督は違った意見だった。「私にとっての覇王は舞台では“覇王”だが、舞台を降りたら、飲み食い、女、博打をやるような男だよ!」。徐楓は聞いてハッと目が覚める思いだった。「監督の考え方でやるなら、プライベートでは普通の男です。 じゃあ張豊毅にしましょう!」と。 体重維持に注意。トラブルは転じて福となる ラブストーリーの撮影を予定 1992年3月、レスリーは正式に北京に行く準備を始めた。到着した日、皆は彼に新疆の羊肉のご馳走を勧めた。結果は体に合わなかったのか、苦しく救急車を呼び、点滴を受けるまでになった。しかしこの病は転じて福となった。レスリーのダイエット計画にぴったり合ったのだ。「僕は体重を133ポンドにキープしようとしていました。この位が美しく見えますから」。レスリーの時間割はぎっしり詰まっていた。早朝に所作を練習し、午後は北京訛りを学び、セリフを歌う。名優を訪ね、夜には京劇を実際に鑑賞する。ホテルで鏡に向かって手本を真似し、梅蘭芳の映像を見つめる。積極的に学ぶ姿勢と才能を京劇の張曼玲先生は絶賛した。「レスリーといえば、教師を尊び熱心に学ぶ。才能も魅力もあり、そして努力家です。初めは京劇の基礎がないので心配でした。元々は顔を合わせて、普通話を教えるだけのつもりでしたが、一目見て彼には神秘性も、何にも成れる可塑性もあると分かりました。女形を演じられる品がありました。だから彼の教育を引き受けました」。レスリー自身も自分を過小評価していない。「もし僕が北京に生まれていたら、きっと素晴らしい女形になっていただろう」。そして自分から京劇部分の代役は不要と言った。「訓練を受けて、またカメラで撮ることもあり、銀幕でなら観客をだませると自信がつきました。しかしセリフは、やはりプロに歌ってもらう必要がありました」 関係者みなが認めることだが、ワンシーンを何度も取り直し、4時間に上る事もあった。北京を訪ねた記者にレスリーはこう尋ねている。「この作品に皆さん期待して下さっているのでは?」。1993年5月、《覇王別姫》は第46回カンヌ国際映画祭にノミネートされた。プレミア上映では、観客が10分以上の熱烈なスタンディングオーベーションを送った。バイヤーの提示価格も、香港での商談の4~5倍になっていた。ニュージーランドの作品《ピアノ・レッスン》と共にパルムドールを獲得して盛り上げた。しかし勝敗が分かる前に、《覇王別姫》は国際映画評論家協会賞を受賞し、これは良い兆候と思われた。 徐楓は笑って思い出す。「カンヌではパルムドールはまず《ピアノ・レッスン》に贈られました。台湾の記者たちはスクリーンを見て、徐楓大姉は大泣きだろうと思ったそうです。でも不思議に、明らかに賞が他人に渡ったのに、私には何の感慨も有りませんでした。必ず自分たちが受賞できると思っていたんです!」。滅多にないことに、この年のパルムドールは2作品に与えられ、もう一方は《覇王別姫》に落ち着いた。「何とも残念だったのは、レスリーが最優秀主演男優賞を獲れなかったことです。難しいことだとは分かっていました。最優秀作品を受賞して、もう一つ大きな賞を獲るなんてありえません。それに当時、海外の評論家はレスリーをあまりよく知りませんでした。もしそれ以前に彼の作品を見ていれば、何らかの印象の影響があったはずです」 勢いに乗じて、徐楓は李碧華の別の作品《延安最後的口紅》を映像化しようとした。しかし陳凱歌は《風月(花の影)》の撮影に意欲を燃やしていた。話し合い尽くし、徐楓は監督に従った。同じスタッフ陣で臨んだが、残念ながら前作ほどの結果は上げられなかった。しかし徐楓とレスリーの関係は変わらなかった。「レスリーの監督第一作は、私の会社で撮る予定でした。レスリー、私、李碧華で組んだ、広東省の片田舎でのラブストーリーです。その後に、ある北京の人がレスリーと撮りたいと言い、私も反対しませんでした。先に他の人と撮影しても、 私の手元にはシナリオがたくさんありましたし。クランク・インという時に、その社長にトラブルが起こりました。ある日、レスリーが我家に来ましたが、何だかおかしいと感じました。一目で鬱病と分かるくらいで、医者に行くよう勧めました…」 往時を思うと、心揺さぶられる。全てはあなたのため。 ( 完 )
by leslielegacy
| 2013-08-25 00:00
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